大湊

 
 小林裏は昼も夜も釣り人が多くなってきたので、前から目をつけておいた大湊へ回っていった。


 ここのものは小林裏よりも少し型が大きく、15pのものもいた。すこし型の大きいものはのべ竿では手に余り、捨て石の下へ潜り込んでしまう。そこで5mのヘラ竿を新調してガイドをつけ、小型のスピニングリールで対応した。


 日が短くなってきたので、半夜釣りがメーンとなった。

 ある日の夜、私は同じ場所で一人の初老の釣り師と遭遇した。

 彼はスピニングリールでやや遠投し、実際の深さよりウキ下を長く取り、底ずらしでエサを流していた。エサはミノムシを使っていた。しかも、買ってきたものではなく、彼自身が干潮時に掘ったものである。今時、ミノムシを自分で掘る人は少ないと思われるが、彼は大潮の時以外それを冷凍して、磨き砂でまぶして使用していた。

 彼のクーラには私の釣ったものより一回り大きいカイヅや、40pはあろうかと思われるセイゴが所狭しと入っていた。カイヅには既に縞が現れ、シラの様相を呈していた。彼は昨日半夜で40枚上げたと言う。十月の初めの頃である。

 また、夏にはこの釣り方で35pや44pの良型も掛け、取り込むのに一苦労したとも言う。

 このような河口でそんな良型が食うのなら、来年の夏が楽しみになった。

 ある時私がこの釣り場に到着すると、彼は既にいて、あなたもこれで釣りなさいとミノムシを私にくれた。私は恐縮しながらも有り難く受け取ったが、その後のカイヅの食いがまるで違った。アタリがダイレクトに手に伝わってきて、ほとんど向こう合わせで掛かるのである。しかも、彼のミノムシで釣れるものは型が大きく、最大のもので18pもあった。その日は私も20枚近く釣り上げたのである。

 今年のカイヅの数の多さはどこでも耳にしたが、サイズがまちまちであった。最小のものは10pに満たないのもおれば、最大は前述の通り20p近かった。こんな年は初めてである。数年前、甲賀浅浜での数釣りでもみんな型は一応揃っていた(「浅浜の爆釣」参照)。

 何故であろうか、恐らく産卵の時期が一定でないのだろう。というのは先日釣った奈屋浦の大チヌは2枚とも抱卵していたのである。今までだったら、八月末に抱卵状態は考えられないことであった。通常チヌの産卵は春とされているが、最近の環境変化による高水温化により、彼らも産卵の時期を定められないようだ。と私は考察してみたが、それが正しいかどうかはさだかではない。

 しかしまあ、カイヅがこんなに簡単に数釣れて、紀州釣りの必要もないので、あまり真剣にもなれず、何だかばかばかしいくらいだった。

 やはり、もっと大型が釣りたかった。そうなると南島の他、今のところ釣り場が考えられなかった。
 
 奈屋浦のイカダ 4
 

 辻岡氏に無理を言って、またイカダに渡してもらうことになった。十一月の半ばのことである。私は十月にも一度渡してもらっていて、その時は他の人の竿にヒラメが食いついていた。外道で食いついたヒイラギをそのままにしておいたら、50pはゆうに越えるヒラメが上がってきたのである。とたんにその場にいた人たちは、ボラ釣りをやめてヒラメ狙いに変更した。その後はヒラメが相当数上がり、高級魚だけにみんな必死であった。一番大きいのは70p近くあったかも知れない。その魚を辻岡氏はスカリに入れるときに逃がしてしまった。私も一枚もらって食べてみたが、美味だったことはいうまでもない。


 私は他の人がヒラメ釣りをしてもまるでお構いなしに、相変わらず大チヌを狙ってダンゴを投げ続けていた。しかし、結局目当ての獲物は釣れず、マナジを一枚上げただけであった。


 その話を同僚達にしたら、皆、是非行きたいと言った。山上氏などはヒラメが釣れるのに、チヌ釣りにこだわる気が知れないと言った。勿論彼も参加を表明したが、 以前から予定していたゴルフと日が重なってしまい、彼は白山町に走った。

 その日、私は湯川氏を助手席に乗せ、佐渡氏と中北氏は単独で奈屋浦に向かった。

 能見坂峠を越えたあたりで、中北氏から湯川氏の携帯電話に連絡が入った。何でも辻岡氏の都合が悪くなったというのである。内容はそれだけで後は何もなかった。

 どうしたのだろうか。辻岡氏の都合がつかないということは、今日はイカダに渡れないということである。しかし、ここまで来て、今更引き返すわけにもいかないので、そのまま車を奈屋浦に進めた。

 船着き場に着くと、中北氏がいて、辻岡氏は早朝に犬を散歩させていて怪我をしたと言う。大したことはないらしいが、それでも伊勢の病院まで治療に行ったらしい。

 都合が悪くなったということではなく、明らかに事故ではないか。これではイカダへ渡るなどおぼつかない。そこで、贄浦の堤防で釣ることにした。

 辻岡氏の容態は気になったが、たいした怪我ではないと聞いていたので、少しは気が楽だった。しかし、彼は犬の散歩をする時間を、我々のために早めたのではないのだろうか。そのために怪我をしたのなら、非常に申し訳ないことになったと思った。そして、詳しいことはこの時点では何もわからなかった。


 贄浦では、湯川氏が少し型のいいグレを数尾上げただけで、他の者はどうしようもない貧果に終わった。大体こんな日はろくなことはないものである。

 昼前に辻岡氏が頭を包帯でぐるぐる巻きにして現れた。伊勢の病院へ行っての帰りらしい。何でも散歩させていた犬が猫を見つけたので、急にそれにほえ掛かり、方向転換したので、持っている手綱の輪が手から外れず、そのまま犬に引っ張られた形で、コンクリート護岸の下へ転落したらしい。彼の犬は紀州犬である。力も強いはずだ。

 それにしても、そんな状態でよくそれだけの怪我で済みましたねというと、大したことはないと平気そうである。頭は何ハリか縫ったらしい。よく見ると足にまだ血がついていた。

 私は柿を持っていたので差し出すと、ありがとうと言った言葉もつかの間に、もうかぶりついている。しかも、皮のままである。私が驚いていると、自分は野人なのでミカンも皮ごとよく食うことがあると言っていた。

 辻岡氏が元気だったので安心したが、結局南島へ行ったのはこれがこの年最後だった。
 
 大湊 2
 

 大湊のカイヅも十月半ばになると陰をひそめた。釣れなくなってしまったのである。初旬の頃は調子に乗って、半夜で連日通ったこともあった。一度とんでもない目に遭ったことがあるので、記しておこう。

 夜釣りには懐中電灯はつきものである。これがないとはっきり言ってお話にならない。仕掛けを結んだり、道具を取り出すときにどうしても必要なので、現場では置く場所が一定していない。


 ある夜、いつものように私は釣り場へ降りていく階段に道具を置いてその下で釣っていた。

 めでたく、数枚カイヅを釣り帰路についた。家に着いて道具を降ろしていると、車の中が少し臭う。おかしいなと思い、懐中電灯を見ると、その取っ手の下の所に妙な黄色い付着物があった。

 どうも匂いのもとはそこから発しているらしかった。鼻を近づけてみると相当臭い。どうも人糞のようだ。あわてて他も調べてみるとクーラーの上にも少し着いている。

 女房に知れたら大変なことである。私は大急ぎで懐中電灯とクーラーに着いているそれを外流しで洗い流し、知らん顔をして家に入った。女房は丁度入浴中だったので、はいていたズボンなどもすみずみまで調べたが、幸いにしてどこにもそれらしきものはなく、事なきを得た。

 次の日は日曜日だったので、日中に昨夜の場所に行ってみた。そうすると私がクーラーを置いていたすぐ傍に、あるものがとぐろを巻いていた。そうして、そのとぐろの片隅に懐中電灯の片隅の跡がくっきりと付いていた。

 実に危ないところであった。もう少し位置がずれていたら、私のクーラーはその真ん中に埋没していたかも知れない。あるいは足で踏んづけていたかも知れない。私は冷や汗をかくのを禁じ得なかった。

 こんな所に、野糞をしたのは誰なのだろう。いくら夜釣りで人目につきにくいからといっても、もう少し場所を選んでほしいとつくづく思った。
 
 石元氏
 

 同僚に石元氏という人がいた。彼は私たちが釣りに行った話をするものだから、ひそかに自分も行きたいと思っているらしい。面と向かっては言わないが、会話のはしばしにどうもそういうふしがうかがえる。

 しかし、彼には問題があった。何でも数年前に船で釣りに行った際に、エサは自分でつけられないし、釣れた魚も生臭いと言って触ろうともしなかったそうである。それだけならまだよかったが、食いが止まってしまうと退屈になり、手持ち無沙汰になったので、とんでもない行動をとった。夏のことで暑かったせいもある。


 何とみんなが釣っている竿下へ突然飛び込み、泳ぎ始めたそうである。
 このとき一緒に釣行した人は驚きあきれ、以後彼との釣りはご免被りたいと言ったそうだ。

 またある時、別の人と行ったときは、釣れないから退屈だと、三人で船を揺すったそうである。普通、船は揺らしたぐらいでどうこうするものではないが、乗っていた三人は石元氏をも含め、全員相撲取り出身の重量級であった。

 不幸にも折から隣に来た漁船の繰り出す波を受けて、彼らの乗った船は転覆してしまったそうである。

 恐らく船外機はその後使い物にならなくなっただろうし、渡船業者は泣いただろう。沈んだ船を引き上げるのも並大抵の苦労ではない。

 石元氏は我々と一緒に釣りに行きたいらしいが、それらの話を聞いているので、今だに彼を釣りに誘うことはためらっている。…


釣行記 35に続く
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