奈屋浦のイカダ
 
 
次の日、朝早くから私は佐渡氏と共に南島町奈屋浦に向っていた。
 
所属長である辻岡氏が親戚のイカダへ乗せてやると言ってくれたからである。
 
辻岡氏は山上氏と同じ南島町在住で、まるで漁師のような人だった。彼は以前こんな意味のことを私に言ったことがある。

 ─夏の夕暮れに漁船に乗って艫(とも)(船尾)から船の通った後を眺めていると、まるで吸い込まれていくような海の息吹を感じる。そして、視界から山が遠ざかっていくとき、何と自分の故郷は美しいのだと思う。─

 彼は豪快な人だが、詩人のような繊細さを持ち合わせていた。また私は彼のことを十年以上前から知っていた。そのころ奈屋浦堤防で釣りをしていると、よく彼が犬を連れて散歩させていたことを記憶している。そのとき、釣友の誰かが、私に彼の名を教えてくれたのである。もっともそこに辻岡氏との会話は生まれなかった。何年か経って今の職場での邂逅である。

 奈屋浦の船着き場に着くと船に荷物を積み込み、辻岡氏の操縦で出港した。行き先は長友イカダである。 

 長友イカダは奈屋浦堤防のすぐ先にあり、目の前に漁協直営の釣り堀イカダがあった。その形状は丸く、今までの四角いイカダとは勝手が違っていた。実に歩きにくいのである。足場板も所々しかなく、紀州釣りの多くの道具や荷物を持って歩くのに難渋を極めた。

 佐渡氏の場合、私より立場は深刻だった。というのは彼は先日アキレス腱を痛めており、通常の歩行も今だ満足でなかったからである。

 二人とも脂汗をかきながらそろそろとイカダの上を歩き、ようやく二人が乗れる足場板の上に着いた。

 私たちが釣座を構えたイカダはその中に魚を養殖していなかったので、潮の流れを考慮してその中で釣ることにした。二つ向こうのイカダには鯵が入っており、隣のイカダでは辻岡氏が鯵に与える飼料に寄ってくるボラを釣ることになった。これらの円形イカダは太い短いロープでつながれているだけで、イカダからイカダへ渡るにはかなり危険が伴う。

 私は英虞湾で開発したイカダでのウキ釣りをすることにした。佐渡氏もウキ釣りの方が得意なので持参したイカダ竿は使わなかった。彼はイカダでのウキ釣りは初めてだったようだ。

 ウキ下は6ヒロもあり、竿はヘラ竿改造十尺なので、仕掛けを回収するときに誘導仕掛けのウキは下に下がってしまう。そこで短い竹にハンガーのU字型の部分をくくりつけた掛竿を考案し、この時も(前述「イカダでのウキ釣り」参照)それを使ってウキの根本を掛竿で引っかけてまずウキを回収し、その後に仕掛けをたぐり上げていた。

 釣れるかどうかはまるで予想できなかった。長い間チヌの顔を見ていなかったので、ほとんど期待はしていなかった。風が少し強いので仕掛けがうまくなじむかどうか不安だった。イカダの外に向かって釣ると向かい風なので、内を向いて腰かけたのである。

 辻岡氏は隣のイカダで既にボラを何本も掛け、豪快に釣りたくっている。彼にとってはどんな魚も価値あるもので、私たちのようにチヌが本物でボラは外道だという感覚がないようだ。そこが漁師気質で遊びの釣り師とは違うところであろう。それにしてもでかいボラである。南島のボラは市場でも価値あるもので、堤防で掛かるものも大きかったが、ここのものはさらに一回り以上大きい。

 心配した風もすぐにおさまり、こちらにもボラアタリが出始めた。佐渡氏はボラを掛けている。

私はボラなど釣る気持ちは全然ないので、出るボラアタリを全て見送り、その後に出るゆっくりとした本命アタリに集中していた。だが、そのアタリはなかなか出ず、ボラアタリばかりである。

 十時半頃、節アタリが何度も出る。しかし、ウキは海中に引き込まれず、今までと同じである。そんなアタリを繰り返しながらウキが少し流れだした。

 佐渡氏がボラも釣るべきだと横から言う。彼もボラを釣ったし、辻岡氏がボラ釣りをしているのだから、つき合えというのだろう。まあ、それもよかろうと適当な節アタリで合わせてみた。

 たいした手応えではない。それでもよく走る。どうせボラだと思っているので、あしらい方もいい加減である。それにしてもなかなか上がってこない。円形イカダの内側一杯に走り回している。そうこうしているうちに、ようやく左斜め前方に魚影が見えた。

 仰天してしまった。ボラではない。本物だ。しかも異常に大きい。とてつもない大きさである。縞もないし、クチジロだ。あわてふためいた。

 同時に大変なことに気がついた。タモが手元にないのである。タモは…肝心のタモは遙か離れた隣イカダの辻岡氏の所にあった。そこへ行くためには危うい足場をつたい、さらにロープだけでつながれている隣へ海面を越えて渡らなければならない。辻岡氏はボラ釣りに夢中でこちらのことに気づいていない。

 私の頼みの綱は佐渡氏しかいない。彼は悟ったようにタモを取りに行ってくれる。しかし、彼が戻ってくるまでに、こいつをバラさずに持ちこたえられるだろうか。

 私は大チヌとのやりとりに集中する。浮かせてからも奴は相当の抵抗を試みる。左へ行ったり、右へ走ったり、手元へ突っ込もうとする。

 私はまた大変なことに気がついた。タモを取りに行ってくれた佐渡氏はアキレス腱を痛めている!そう思って彼の方を見ると、ちょうど彼は隣のイカダへ、這うようにして渡るところであった。

 彼がタモを抱えて、ここまで戻ってくるまでに、一体あとどれだけかかるのだろう。まさか、足を痛めている者に、早くせよとせかすわけにもいくまい。

 私は半ば諦めた。しかし、その魚体はどう見てもかるく50pを越えている。二十年ごしの、夢にまで見た奴だ。おいそれと諦められたものではない。

 早くしてくれ、いつまでももたない。

 佐渡氏がタモを持って私の傍に現れるまでの時間は、気の遠くなるほどの長さに感じた。

 彼も魚体を見て驚く、こんなのをタモ入れに失敗したら何を言われるかわかりませんね、と冗談を飛ばしながら一発で入った。

 辻岡氏もボラ釣りをやめて見に来る。こんな大きいツエは見たことがないと驚いている。佐渡氏のスカリに入れさせてもらったが、ひどく窮屈に収まっている。

 私は呆然としてしまった。辻岡氏はボラ釣りに飽きたこともあり、タモは引き続き私たちの手元に置いてもらうことにした。

 佐渡氏の目の色が変わっている。今までとはうって変わって真剣かつ必死にダンゴを打ち返している。心なしかそのペースが速くなったように思われる。しかし、彼にとって慣れぬイカダでのウキ釣りと、私の貸してあげた一対一の両軸受けリールに悪戦苦闘し、ボラを数本上げただけである。

 私はスカリの中のチヌのサイズが気になって仕方がない。あいにくスケールも持ってきていない。タモも、スカリも何もかも持参しなかった日にこの釣果である。それにしても、こんな細いヘラ改造竿でよく上がったものだ、と辻岡氏が感心している。

 こんな大物を釣り上げた日は、もう後はどうでもいい、とあまり欲は出ないものだ。その後の私は適当に釣っていた。しかし、佐渡氏は真剣である。

 昼食を取り、二時を回った頃である。気分を変えようと、先程のチヌのときと同じエサを使った。アケミ貝と二年前に保存した冷凍ミノムシを同時につけて放り込んだら、また節アタリが出始めた。

 ボラアタリの後、ダンゴ崩壊後のアタリに集中する。何度もアタリは出るが、沈んだと思ったら浮き上がり、又沈んだと思ったら浮き上がったりを繰り返している。やがて沈んだと思ったら、浮き上がるはずだが、今度は浮き上がってこない。途中まで浮いて止まっている。さらにそのままウキは流れ始めた。

 私はここで合わせた。

 今度は物凄い引きである。竿が水中に勝手に突っ込んでいく。決して糸は出すまい。しかし、今にも極細の竿が折れそうだ。実に不安である。また竿先が水中に消える。

 そんなことを何度か繰り返した後、遂に奴は観念し、その姿を水面に現した。今度も大きい。

 しかし、これは先程のものより、少し下回り、50pであった。ちなみに最初のものは55pである。

 佐渡氏も納竿間近に遂に掛ける。だが残念かな、期待に添えず大ボラであった。
 

 納竿後岸に着いてから、三人でかさらぎ浜を散歩した。私の驚いたことは十年前とうって変わって、渚の水がきれいになっているのである。あの頃は養殖魚の飼料である鰯の脂がうち寄せ、海水浴では膚についていやな思いをしたものだが、今はそれは消えていた。海水の透明度も増したような気がする。長友イカダで気づいたことだが、魚に与える飼料が以前とは変わっていて、恐らく海に影響の少ないものにしているのだろう。また、あのきれいな南島の海がよみがえりつつあるのだ。やはり、環境は人間の作るものだと再認識した。
 

 辻岡氏は家に帰ったが、まだ時間があるので佐渡氏は堤防でもう少しやろうという。私はどうでもよかったが、彼の言うままに、少し紀州釣りをした。けれども、佐渡氏の思惑とは裏腹に何の魚信も得られなかった。

 彼の携帯電話に中北氏から連絡が入った。中北氏も今日来るはずだったが、所用で断念したのである。私の釣果を伝えると、とてもうらやましそうだった。それに関しては佐渡氏も同様だが、昨年二人ともあんなにいい目をしたのだから、たまには私に譲ってくれてもいいではないか、と言うと黙ってしまった。大体二年連続でいい目をするなんて調子がよすぎる。

 しかし、佐渡氏は帰りの車の中でも、まだ少し不満そうだった。…


釣行記 33に続く

BACK