新しい職場 


 また転勤になった。


 新しい職場は磯部町にあり、昨年完成していた新居からゆうゆう通勤できる距離であった。女房も小俣町に異動した。彼女の方はもともとの希望だったので、願ったりかなったりであったが、私の方はおまけであった。和具にある旧職場まで一時間以上かけて通う覚悟を決めていただけに、正に幸運としか言いようがない。


 阿児町には三年間しかいなかったが、さんざん釣りを堪能できただけに少し名残惜しかった。伊勢地区にある新居から今までの釣り場にはやはり遠い。

 だが、少年時代から慣れ親しんだこの土地にやっと戻ってきたのである。もう動くことはない。そう考えると感慨もひとしおだった。

 旧職場の歓送迎会で懐かしい人にあった。何と十年前に南島の贄浦や奈屋浦で一緒に釣りをしたG氏であった。彼は迎えられる人、私は送られる人であった。私と入れ替わりに彼は和具の職場に入ったのである。

 G氏はあの頃単車で南島まで釣りに来ていた。私と同じ改造したハエ竿を使い、流れるような釣技は華麗であった。よく情報交換し、楽しく釣りをしたことを記憶している。今は流石に単車は使わないものの、南島へはいまだによく行くと言っていた。


  私にとって新しい職場はやたら忙しく、慣れないせいもあってか、釣りに行く余裕も見つけられなかった。そんな中で一人の釣り好きの同僚と出会った。

 彼の名は中北氏といい、片田出身で磯部町にある職員住宅に住んでいた。四月の終わりに片田の堤防で47pを釣ったと言い、魚拓まで見せてもらった。また、私と一緒に異動になった嬉野町出身の三沖君も釣り好きのようだった。彼は主にブラックバスを中心としたルアーフイッシングにせいを出していたが、海の近くに来たからには是非海釣りにも挑戦したいと意欲満々であった。

 彼らは同じ住宅に住んでいるので、よく一緒に釣りに行っていたようである。私も誘ってくれるのだが、もう一つの趣味の音楽活動が忙しく、なかなか釣りに行けなかった。

 私は彼らの釣り談義を半ば羨望の感情を覚えながら、もっぱら聞くことを常としていた。二人とも紀州釣りはまだ日が浅いが、私のようにチヌ釣り一辺倒ではなく、様々な魚種を対象としていた。

 夏が来ても忙しく、殆どその余裕がなかったが、家が宮川河口近くになったので、一度だけそこに釣行したことがある。

 その場所は上條裏といい、宮川の河口近くであった。以前から伊勢の人たちには親しまれていたポイントであり、二十年くらい前に一度だけ行った記憶がある。だが夜釣りの場所で紀州釣りなどする人はおらず、昼は川がだだ滔々とと流れるばかりであった。釣れる魚は主に二歳魚だが、ごくまれに大型も姿を見せているらしい。


 七月になってから二十年ぶりに様子を探りに行くと、多くの釣り人たちが電気ウキを流していた。餌はミノムシである。

 釣り人が多いのと、夜は仕掛け等が見えにくいので苦手だった。利点といえば家から近く五分もかからないことだけである。

 話は変わるが、釣り場に近いということはひどく幸運なことだと思っている。この点で阿児町に住んでいたことは、近くに無数のポイントがあったので充分楽しめたのだ。今はそのポイントも車で一時間近くかかる遠方になってしまった。こんなことを中京地区や京阪神の人たちに言うと叱られそうだが、何も近いに越したことはない。わさわざ遠くまで出かけて行かなくても、近くに釣り場があればそこで釣ればいいのである。


 そんな考えから、私はこの上條裏へ行くことにした。しかも白昼である。

 釣行したのは盆過ぎになっていた。

 夜釣りでしか釣れないと皆が信じ込んでいる場所で、紀州釣りを試みようとしたのである。もともと黒鯛は夜釣りという感が強く、ダンゴを使っての紀州釣りの出現で昼間での釣果が可能となったといえるだろう。この場所に来る人はそんな以前の釣法をいまだに続けていたし、昼間に釣るという感覚がなかった
のである。

 釣り場に着き、適当なポイントを探してダンゴを投げてみた。ここは所謂トーフという豆腐型のテトラが多く、根掛かりを覚悟しなければならない。おまけに流れがあるのでこの釣りには不向きだった。少し緩やかなときもあれば、ひどい急流になるときもあり、この場合は釣りにならなかった。


 それでも少し経つとボラが寄り始め、一時間後には20p級が竿を曲げた。

 しかし後にも先にもこの1枚だけで、後はアタリはあるもののハリに乗らない。しまいにはそのアタリもなくなってしまい、つまらないので納竿した。

 もっと数釣れるかと期待していたのに意外だった。後から聞いたことだが、この場所でシラが釣れるのは七月末までであるということだった。私はそのことを知らずに出かけたのである。

 帰ってからその1枚のシラを煮付けにして食ってみた。川で獲れたものだから、塩焼きにするには臭みが気になったのである。しかし煮付けにしても充分それは気になった。


 英虞湾産のものは塩焼きでも充分いけたし、煮付けにするといいおかずになった。ところがここのものはまるで話にならない。やはり海のものと川のものは違うのだろうか。ただこのことに幻滅したので、上條裏へ行くことは今後よすことにした。

 以後少し足を延ばして鳥羽の小浜へ行ってみたが、ここにも遠投人が闊歩し、意気消沈する始末だった。おまけに週末の鳥羽は人が多すぎて、駐車する場所さえない。

 仕方がないので、大清戸へ偵察に行き魚影を見つけたので、次の日釣行すると魚影は消えていた。ボウズであったせいか帰り道はことさら長く感じられ、阿児町に住んでいたことが懐かしく感じられた。

 そんなわけで引っ越してから一年目は、言いようのない貧果に終わった。
 

  
礫浦のマダイ
 


 二年目の夏が来てもやはり私は忙しかった。六月になっても釣りに行けず、中北氏たちの釣り談義に耳を傾けるのみであった。

 今年になって伊賀方面から、佐渡氏が転勤して来ていた。彼は海のルアーフィッシングを得意としていたが、紀州釣りもこなし、上野在住の時からよく紀勢町錦へ釣りに行っていたらしい。職場に釣り師たちが増えつつあった。同じく今年異動してきた湯川氏も釣りに興味がありそうだし、三沖君は既にこちらの釣りになじんでいた。


 彼らの釣り談義は実際に釣りに行ったことから来るものだった。私はといえば彼らの話を聞いていても、講釈しか述べられなかった。私は釣り師であって、釣り講釈師ではないのである。釣りに行っていないから、そうとられても仕方がないが、いつかは行きたいと思っていた。

 七月初旬の休日、中北氏の誘いで礫浦へ一緒に釣行した。

 礫浦は比較的新しい釣り場である。十年ほど前までここは禁漁区だった。禁漁が許された所謂「口開け」以来、ここは爆釣した。大型が次々と竿を曲げ、テトラが多く足場が悪いせいか多くのチヌのバラシがあったところだ。

 着いてみると釣人は誰もいなかった。釣座はテトラの上に組まれた足場板の上である。もともとそんなものはなかったのだが、足場が悪いので誰かが持ってきて置いたものがそのままになっているのであろう。

 中北氏はポイントに向かって右側に座り、私は左側で仕掛けを作った。彼は以前に来たときに相当大きいのをかけてバラしたという。

 彼のポイントの右側には沖テトラがあり、そこに潜り込まれると厄介だ。また釣座の下にも残骸のようにテトラがたくさん沈んでおり、魚をかけても取り込みに苦労しそうだ。潮色は濁り、やや青みがかっている。すっかり夏の海だ。季節がら赤潮を心配していたが、ここには押し寄せてこなかったようである。


 二人共ダンゴ配合してから釣り始めた。中北氏は紀州釣りを始めて間もないというが、なかなか手返しが多い。

 木っ葉グレがひっきりなしにかかってくる。かなり魚が活性化していて頻繁にアタリがある。まるで退屈しない。

 今日はいけそうですね。と中北氏が言う。私も釣れそうだと答える。

 やがて彼の竿が弧を描いて曲がり、その顔色に緊張感が走る。彼は最近流行のインナースルーロッドを使用しており、ガイドがついていないだけにそのカーブが美しい。私がタモ入れする。慎重に。一発で決まった。35p。


 何度かここに来ているが、初めてチヌを釣ったと、中北氏は喜色満面である。私にとっては見事に先を越されてしまったわけだが、何故か挽回しようという気がない。長い間釣りから離れていたせいだろうか、どうも不思議である。

 その後私の竿にもかかったが、外道のマナジ(ヘダイ)あった。従来からのガイド付き竿を使っているので、どうしても穂先に道糸が絡むことが多い。その際常に海中に穂先を突っ込んで、水の摩擦で絡んだ道糸をさばいているのだが、この場所は真下にテトラがたくさん沈み、それらが顔を出しているので付着したカキに道糸がからんでしまうことが多い。ひょっとしたら、あまりやる気の出ないのはそのせいかもしれない。その点中北氏の竿はガイドがついていないので、そういう煩わしさがない。インナースルーロッドの最大の利点であろう。

 どうも私にはこの釣り場が向いていないように思われた。糸がらみのトラブルさえなければ、そんなことも思わなかったのだろうが、真下に沈んでテトラがやはり問題だった。


 夕方近くなると、私は仕掛けをたたんでしまった。夕まずめの絶好の時間帯であるのに、読者は不思議に感じるかもしれないが、魚は朝だろうが昼だろうが要は食うときは食うのである。というよりも、そのときの私は仕掛けを放り込むのが既に面倒になっていた。

 中北氏はその後も真剣なまなざしでウキを見つめ続けている。チャンスは今しかない。餌も殆ど残っていない。

 私は時間をもてあましたので、残ったアケミ貝の中に数粒混じっていたわけのわからない貝(名前は知らない)をつまみ上げた。その貝は殻が固く、小粒で白っぽい色をしていてアケミ貝とは似ても似つかない。たぶんアケミ貝と同じ場所に生息しているので、獲る時に一緒に混ざってしまったのだろう。


 私はその貝を差し出し、中北氏にサシ餌につけたらどうかと提案した。もう餌も残っていないので、彼もものはためしだと思ったのか、それをもとからハリにあったアケミ貝と一緒につけて放り込んだ。

 その直後である。ウキにアタリが出したのは…。

 ウキはゆっくりと沈むが、またすぐ浮き上がってくる。沈んだり、浮いたりを繰り返している。いい加減で中北氏が合わせようとすると、バカにしたようにまた浮き上がってくる。彼は合わせのタイミングを取りあぐねているようだ。まだまだと私が言う。これはチヌに違いない。完全水没を待てと繰り返す。


 中北氏は焦りだした。というのは、あまりにもアタリの出る間隔がスローであり、今出ているアタリを見送ったら最後、次のアタリは出ないのではないかと思うくらいなのである。それでもまだまだと私は言う。

 やがてウキはゆっくり沈んでいき、トップが完全に見えなくなって、さらに深みへと吸い込まれていく。

「よしっ!」

 と私が掛け声をかけたと同時に中北氏は大きく合わせた。相当の引きである。竿は先程のチヌの時より大きく曲っている。


 獲物は中北氏の前にある沖テトラの中へ逃げ込もうとしている。彼は何とかこれをかわし、さらに沖へ逸走するのをくい止めて遂に、浮かせることに成功した。浮いたやつを見ると、チヌにしては魚体が赤みがかっている。


「マダイだ。」

 何ということだろう。まさかマダイとは。しかもかなり大きい。

 中北氏は竿下に寄せ始めた。私はタモを持って構える。

「慎重にお願いしますよ。」

 思わず彼は本音をもらす。

 しかし、彼の下にはテトラが沢山沈んでおり、取り込みが容易でない。そこで私は沈みテトラの間に魚を誘導するようにアドバイスした。これが見事に効を奏し、めでたく取り込めたのである。

 43p。見事なマダイである。

 中北氏にとって実に幸運な日であった。この礫浦に通いつめたかいがあったというものだ。彼は納竿後も携帯電話で家族や同僚に電話し、実に嬉しそうだった。そして、この釣果がますますこの後彼を、釣りにのめり込ます原因となるのである。

釣行記 29に続く

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