中国国籍のO氏
 
 
いつも夕方になると校長は現れ、パタパタと釣って日暮れに帰っていった。餌をコメツキガニにしたり、「エビの早がけ」を久しぶりに試したりして対抗したが、魚は吸い寄せられるように、彼の竿下に行ってしまった。
 
私もT氏も他の釣り人も、口をあんぐり開けたまま、ただ呆れるばかりであった。とにかく餌でこれ程釣果に差が出るなど、初めてのことであった。偏食傾向もここまでくるとお話にならなかった。

 校長の来る時間帯を避けて釣ればよいのだが、そうもいかなかった。
彼は一番食いの立つ夕方に現れるからである。そして来るたびに必ず誰よりも多くを釣り上げ、早くから来ていた人を悔しがらせるのであった。


 だが、一週間もすると、マムシの食いも他の餌とさほど相違なくなった。というよりも全体的に釣れなくなってしまったのである。
 
 入れ食いを演じられなくなった途端に、校長は来なくなった。同時に魚の数も減ってしまったようである。



 この頃、タクシーで堤防に釣りに来る人があった。今までにそんな人は見たこともなかったので、奇異に感じた。釣りにタクシーを使うなんて、贅沢な人だとも思った。


 彼は紀州釣りはせず、主に投げ釣りをしていた。釣っているものはつまらない魚ばかりで、特に気にもとめなかったのだが、話してみると言葉の抑揚やアクセントが、通常の日本人とは異なっていた。

 私は東南アジア系の人だと思っていたが、さすがに確かめてみる勇気はなかった。しかし、T氏は彼の国籍を聞き出していた。中国国籍で、神明に住んで七年になり、気孔を教えているというのである。

 彼の名前はO氏といった。夕方頃にタクシーでやってきて、私たちが帰っても夜釣りをしていた。とても日本語が上手で、鷹揚な話し方に魅かれるものがあった。日本人のようにせせこましいところがなかった。やはり大陸で育った人間は、どこか違うものである。


 O氏が夜釣りをしているというので、私も夜に堤防を訪れてみた。すると彼は必ずいて、ウナギやセイゴを釣っているのであった。私は夜釣りはしない主義であったが、彼につられて二、三度したことがある。スズキの大きいのが掛り、エラアライでバラしてしまったり、とてつもなく大きいカニを見つけてタモですくいあげたものの、大きすぎて恐ろしくなり、逃げられたりしたりした。


 夜の堤防は涼しく、賢島の夜景も風情があった。O氏といるとなんとなくほっとするような気持ちになった。

 
賢島のホテル群の明りが海を照らして、ゆらゆらと海面に写っていた。月明りは夏の夜らしく、ぼやけて、真昼のほとぼりを物憂く残していた。秋が近いに違いなかった。しかし、堤防は夏の残像を残したまま、ゆっくりと、静かに、夏の余韻を私たちに楽しませてくれていたのである。 
 
ここの詩的風景は曲になっています。クリックして、「マイ・メロデイ」のサイトに飛び、「TWILIGHT IN SUMMER」を聴いてください。

 
神明堤防の終焉

 また秋が来た。

 神明堤防はひどく食いが悪くなっていた。それにやたら釣り人が増えてきて、いちいち気を使うことが多く、そのことが鬱陶しくもあった。

 人が増えると堤防はどうしても汚れる傾向にある。空カンや、ゴミを捨てて帰っていく心ない人々もいた。

 T氏はそのことを嘆き、「堤防を綺麗に。ゴミは持ち帰りましょう。」という標語を札に達筆で大書し、入口に掲示していた。そしてゴミなどを捨てて帰ろうとする人を目撃すると、注意して持ち帰るようにうながしていた。のみならず彼は自分が釣りをしないときでも、堤防に現れてはゴミを片づけたりして美化清掃に余念がなかった。

 このようなことは、たとえ考えていたとしても、なかなか実行できないものである。私など、自らの美化意識の薄さを反省する共に、環境に対する認識を再考させられた。だれかに言われないと、人は自らの愚かさに気づかないし、だれかが実践しないと環境は改善されない。


 ひとりひとりが注意して環境問題に取り組まなければならない。口で言うのは簡単であるが、実践は難しい。そんな意味でもT氏には頭が下がる思いであった。


 神明はあまり釣れないし、人も多くなったので、浅浜に行ってみたが、釣れたものの型が小さかった。やはり神明であった。近いし、釣りやすいことでは他に例を見なかった。

 その頃知り合った人で、電気屋のKS氏がいた。彼の紹介で堤防の東側にあるイカダでT氏と共に試し釣りをしてみたが、チヌの気配は感じられなかった。賢島の定期船乗り場近くで竿を出してみたが、これもフグが釣れただけで、二時間経っても本物は食ってこなかった。


 新しい釣り場の開拓をするべきであった。というのは、九月になると神明堤防は閉鎖されてしまい、立入禁止の立札が掲げられ、工事を再開することになったからである。


 T氏とともに安乗に釣行したりしたが、アジ釣りが盛んなばかりで、私たちはお呼びでないようだった。

 そんな時、電気屋のKS氏に聞いた賢島のSセンターのことを思い出した。


釣行記 22に続く

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