平家落人の怪
影絵 山人
 
 今からもうだいぶん前の話です。
 三重県度会郡南伊勢町(当時は南島町)には、平家の落人伝説の残る里が多く、その地名にも竈方といい、大方竈、道行竈、小方竈、栃木竈、棚橋竈、新桑竈など「竈」の付く地区が多く、平家集落であると言われています。
 壇の浦の戦いで敗れた落ち武者達は、ちりぢりに全国に逃れ、一部はこの南島町にたどり着き、漁業権のない彼らは、海水から「竈」で塩を製造したので、そのことがこの地名の由来になったということです。
 しかし、この物語はそんな大昔のことではなく、昭和五十年代半ば頃のことで、季節は梅雨時でした。
 六月には雨が多いのですが、梅雨の合い間に晴れの日もあります。
 私は早朝から大江に釣りに出かけました。
 この大江の釣り場は、大江川河口にあり、その流れは阿曽浦の湾に注いでいます。
 

 伊勢方面から行くと、能見坂を下りて、南勢町へ通ずる国道に入り、しばらくすると右へ入る小道が見えます。
 この道をそのまま通ると、ほどなく前述した「道行竈」へ着くのですが、大江川岸沿いに右へ曲がるさらに細い道へ入ります。車一台がやっとこさ通過できる狭さで、ところどころ崩れていて、一つでもハンドル操作を誤ると転落しかねません。
 道は行き止まりですが、最後には広い場所があり、以前は船着き場になっていたようです。実に目立たない場所で、知る人はあまりなく、静かなところを好む私のお気に入りのポイントでした。
 その日は朝早く行ったものの、魚の食いはイマイチでした。ところが、用事で帰らなければならない昼前になってから、俄然魚が活発に当たり出したのです。私以外に釣り人は誰もいません。
 このまま釣り続けていたいのは山々でしたが、どうしても外せない用がありましたので、私は後ろ髪を引かれる思いを胸に、大江を後にしました。
 

 やがて用は済み、夕方になりました。
 どうも昼前の釣り場の活性化が気になります。「夜釣りだったら、もっと釣れるのではあるまいか。」そんなたわいのない思いが胸をよぎります。
 思い立ったら吉日で、私は黄昏ともに大江めがけて再び出発しました。
 
 釣り場に着いた時には、長いこの時期の陽でしたが、もうどっぷりと暮れていました。
 途中川沿いの小道には明かりはなく、車のライト以外に光源はありません。
 ライトを消すと、あたりは真っ暗になりました。と申しますのは、夕方から少し曇り、霧が出始めていたのです。そんなわけで、星もなく、実に静かな夜でありました。
 当然私以外にはだれもおらず、周りには暗闇があるのみです。
 
 一体、どこの漁港にも明かりくらいはついているものですが、ここには何の光もありません。船着き場ではあったとしても、現在は朽ち果てていますから、夜に来る人もいないのでしょう。車の通行する道からは少し離れているので、そのライトも届かないのです。
 今までに、何度か夜釣りを経験していた私ですが、これほど暗い夜も初めてでした。
 闇と濃霧と静寂に包まれ、しばし私は呆然としていました。しかし、せっかく釣りに来たのですから、一応竿を出し、釣り始めました。
 
 電子ウキのリチュウムライトがぼうっとかすんでいます。
 普段の夜釣りなら、赤い小さな点に見えるウキトップも、膨張して見えます。
 昼前、あれほど活発だった魚信がまるでありません。
 そのうちにますます霧が濃くなってきて、一寸先も見えなくなりました。
 
 その時です、すぐ近くの杉木立の陰から、大変怪しい光る物体が出てきました。それは、光の尾を引いて現れると、ゆらゆらと海面に向けて飛んでいきます。
 私は釣り竿を持ったまま、固まっている自分を意識しました。
 さらにもう一体出てきました。同じように海の方へ向かっています。
 私はがたがた震え出しました。あれは一体何なのだろう。ひよっとして噂に聞く「火の玉」ではあるまいか。その怪しい光と、揺らめく形は、鬼火といわれるそのものでした。
 平家落人の霊魂が、今頃になって現れたか。ここは伝説のある「道行竈」と目と鼻の先ではないか。
あまりに辺りが暗かったせいもあり、私は恐怖を感じました。魚も釣れないし、このような状況の下で、釣り続ける気持ちはすでに喪失していました。釣り道具を片付けなければと思い、竿をたたみかけましたが、気が動転しているのか手が動きません。
 物体の方向を振り返ると、何とまた数が増えています。それらは海面上をゆらゆらと漂いながら浮遊しています。
 もはや一刻の猶予もありません。釣り具を放り出して車に乗り込み、エンジンをかけました。ところが前方がまるで見えないのです。ライトをつけても濃い霧のため、進むべき道がわかりません。あまりの濃霧のために、私は立ち往生しなくてはならぬ羽目に陥りました。無理に車を運転したとしても、視界ゼロなのですから、海に転落することは目に見えています。
 私は覚悟を決めました。こうなれば、霧の晴れるまでここにじっとしている他はないのです。いつでも発車できるように、エンジンはかけたままにしました。そして恐る恐る物体の方向を眺めました。 数は二十近くもあるでしょうか。相変わらず海面を飛び交っています。   
確かに怪しい発光体には違いありません。 しかし、皆が恐れる「人魂」と呼ぶには少し違うような気もしました。尻尾が尾を引いて長く連なっていないのです。比較的丸い様子で、飛ぶ速度は、速くなったり遅くなったりしています。
 ふと気がつくと、わずかながら視界が開けています。霧が晴れて来たのかも知れません。視界ゼロだったのが、かなり前方がわかるようになっています。すでに海面が見えてきました。
 少し安心したためか、私は車を降りて、釣り道具を片付けはじめました。発光体の方を見やると、かなり小さくなっています。
 どうも「人魂」ではなさそうです。この時にはもう恐怖心は消えていました。さらに視界が開け、霧が晴れてくると、やっとそれらの正体に気づくことが出来ました。
 何と「ホタル」だったのです。今から思えば、濃い霧の粒が複数のレンズの役目を果たし、その大きさを異常に膨張させ、あろうことか「人魂」に見えたのでしょう。真っ暗な場所にたった一人でいたという状況と、平家落人の里近くということも、その畏れの原因だったのかも知れません。
 
 けれども、そのホタルの種類は「平家ボタル」でなく、「源氏ボタル」でした。
 平家の方は小型ですから、たとえ膨張して見えたとしても、火の玉とまがうことはありますまい。
 
 
 すっかり霧が晴れ、星空の見え始めた頃、私は大江を後にしました。
 この場所にはもう夜釣りに来ることはあるまいと、思ったりしたのでありました。
 
 
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